秩父党
鎌倉幕府が頼朝によって開かれた時代、その与党として彼を支えた武闘派武士団の多くは秩父氏をルーツにしていた。秩父氏は坂東八平氏の1つで、平将門(不詳-940年)の娘春姫と平忠頼の子、平将恒が始めである。将恒は11世紀前半の人で、頼朝の開府年次からいうと、おおよそ150年前にいきている。彼の育った秩父は真ん中を荒川が流れる大きな盆地で、現代では、自然派レジャーを楽しむ人が多く押しかける。我が国の708年-715年は「和銅」という年号だが、その元々の銅が算出した銅産地である。質の良い馬の産地でもあったようで知々夫国造が置かれたりした。秩父氏はやがて峠を越え関東平原に出た。そして、大輪の花が咲くように有力な氏族を出す。武蔵国の最大勢力になった河越氏、江戸氏、相模渋谷氏、豊島氏、のちに奥州総奉行になる葛西氏などである。頼朝の有力な御家人畠山重忠を出した畠山氏もその一門で秩父党と呼ばれていた。