旅コース

吾妻橋西詰→雷門→浅草寺→伝法院→芸人たちの手形(浅草公会堂)→浅草六区★おすすめの季節:通年★

コース内容
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観光日本のシンボルの1つになっている雷門

外国向けパンフレットで観光日本のシンボルの1つになっている雷門。正式な名称は風雷神門。門に向かって右側に風神、左側に雷神が配される朱塗りの山門である。ここから仲見世、本堂につづく参道が通っている。門の中央に重さ700kgの大提灯が吊りさげられている。実は明治から太平洋戦争後までの
写真 95年間、雷門はなく、日露戦争の終結時には、凱旋門として門を建てたともいう。そんな幻の雷門を昭和35年に松下幸之助氏が門を寄進し再建、現在の堂々とした雷門が成立した。今は浅草の大きな目印になっている。夏の三社祭の折、神輿が門をくぐるため大提灯が畳まれるという。それが珍しく浅草ファンは見ものだという。
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雷門から仁王門までつづく浅草仲見世

雷門から仁王門(現宝蔵門)までの表参道を浅草仲見世と呼ぶ。江戸中期に始まったといわれ、最初は水茶屋などもあったようだが、いまは参道の東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗がある。人形焼やあげ饅頭、豆、雷おこし、写真浅草のりが有名だが、和装小物や履物、婦人用ハンドバッグ、人形、仏壇なども売っていて、縦にすればデパートのようになる。まあその分、バラエティに富んでいて飽きさせないということであろうか。


コース内容
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七堂伽藍が再建され
年間約3000万人の人が参拝する

本尊は聖観音菩薩像。推古天皇の時代、宮戸川(現隅田川)で漁をしていた檜前(ひのくま)浜成、竹成兄弟の網にかかった仏像がご本尊になったという有名な話が残っている。そして平安中期に安房守平公雅が、現在みられるような七堂伽藍を整備したと伝えられる。たびたび消失したが、三代将軍家光が本堂を再建し、約300年、東京空襲で焼失するまで国宝だった。吉原などの歓楽街と門前の遊興街が造られたことで多くの人を集め、一帯は江戸一番の繁華街であった。いま七堂伽藍が再建され、年間約3000万人の人が参拝する。滝廉太郎作曲の「鳩ポッポ」の歌碑なども境内に設えられている。

芭蕉の見た桜の頃の風景が思い浮かべられる

浅草寺の本坊。客殿には阿弥陀三尊や徳川歴代将軍のうち11人の位牌など祀っている。小堀遠州作の庭園越しの五重塔が美しい。公開される時に見ておきたい。芭蕉の「観音の甍見やりつ花の雲」という句碑があり、彼の見た桜の頃の風景が思い浮かべられる。写真
天麩羅の大黒屋のある伝法院門前から右回りに、塀沿いに歩くと道の両側に牛すじの煮込みを食べさせるオープンエア風の居酒屋が50-60mつづく。10軒ほどもあろうか、休みの日には客の呼び込みも出る。浅草煮込み通り(ホッピー通り)と呼ばれて繁盛している 写真

笑いと涙も煮込んであるよ。



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今にも壊れそうな風情に仕立てたローラーコースターが人気

昭和28年に生まれた日本現存最古のローラーコースターがある。今にも壊れそうな風情に仕立てた名物アトラクションが人気で若い人も結構乗っている。カエルが飛び跳ねるようにピョンピョンとはずみながら落ちるので「ぴょんぴょん」と名づけられた遊具に小さな子どもたちがきゃーきゃーと喜んでいる。花やしき史上、最強・最速の絶叫アトラクション「スペースショット」や「ちびっ子タクシー」それに「お化け屋敷」「ブリ機コーナー」なども人気だ。トイレやオムツ交換シート、授乳室などが揃っている。
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渥美清、萩本欽一、

ビートたけしなど日本を代表する芸人を輩出した町

渥美清、萩本欽一、ビートたけしなど日本を代表する芸人を続々と輩出した浅草六区。映画、軽演劇、女剣劇、ストリップとその幕間に演じられたコントが注目を浴び、芸能の殿堂と呼ばれた。
写真道頓堀などと並び、日本で最初の歓楽街であろう。そもそもは明治20年開設の常盤座に始まる。演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などができて隆盛を迎え、玉乗り、浅草オペラ、安来節なども矢継ぎ早に登場、客を喜ばせた。明治23年に建設された凌雲閣は12階建てのビルで、その展望台は東京でも有数の観光名所となった(のち関東大震災で崩壊)。日露戦争開戦の前の年、明治36年には、はやくも日本初の映画専門館・電気館もオープンしている。

押上駅→十間橋→東京スカイツリー→隅田公園→言問橋→吾妻橋★おすすめの季節:通年★

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3000万人近い人がやってきて十間橋上から写真を撮る

写真東京スカイツリーの裾を洗うように北十間川が流れている。隅田川と旧中川-荒川を結ぶ運河として江戸時代に掘削された。米や酒、みかんなど江戸の人向けの生活物資が上方や東北から江戸湾にきて、それを江戸の八百八町に運んだ運河だ。いま、世界一の電波塔ができ、3000万人近い人がやってきて、その運河にかかる西十間橋や十間橋上から写真を撮りまくるという図は誰も想像しなかったろう。歌川広重がその作品「名所江戸百景」のうちの「柳しま」にこのあたりを描いている。遠くに筑波山が見える絵には、北十間川と横十間川が流れている。が、十間橋はまだない。川向うの松の木がぽつぽつ立っているあたりにスカイツリーが立った。

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巨大な鉾を大地にズドンと突き立てたようなイメージのスカイツリー

長く親しまれた東京タワーにかわる電波塔だ。東京タワーは裾を広げ天に舞い立つような感じだが、東京スカイツリーは巨大な鉾が大地にズドンと突き立てられたようなイメージだ。高さ634m、自立式電波塔としては世界一。第1展望台が350mの高さに、第2展望台が450mの高さのところに設置されている。第1展望台(EVで50秒)にはレストランやカフェなどがあり、そこからEVで40秒でいける第2展望台は展望専用。晴れた日にはどこまで見晴るかすことができるのか。これだけの構造物だから最先端の技術と部材を必要としたろう。国内の鉄骨部材工場はスカイツリーラッシュになり、繁忙を極めたという。すでに伝説が語られ始めている。


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1日平均8万人もの人がやってくるという東京スカイツリータウン

東京スカイツリーを中心にして、ショッピングセンター(=愛称東京ソラマチ)とプラネタリウム(ドームシアター)、すみだ水族館、教育関連施設、オフィス棟などから構成される東京下町のニュースペ-ス。墨田区の調査では、スカイツリーに年間550万人、東京スカイツリータウン全体では2900万人の老若男女の来場が予想されるという。ソラマチには読売巨人軍のオフィシャルショップや「サマンサタバサ」などが出店する。 写真

のったりとうずくまる「撫で牛」目当ての人が多い牛嶋神社

延暦寺の慈覚大師が須佐之男命を守護神として創祀。その後、源頼朝が蜂起し、大軍を率いて隅田川を渡ろうとした時、牛嶋神社に神徳を感じ社殿を造らせたという。5年に一度(次回は2012年)の大祭「鳳輦渡御神幸祭」が有名。また境内の「撫で牛」は牛の同じところをなでると病気が治るという信仰があり、訪れる人が多い。

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隅田公園は隅田川を挟んで東西に分かれている。いずれも桜の名所だが、東岸の墨堤に将軍吉宗が桜を植え付けたのがはじめという。西岸のざっかけない感じにくらべ、江戸時代に水戸徳川家の下屋敷があり、その庭園をベースにした東岸は水鳥が遊び、しっとりとした雰囲気がある。公園といえるのは東岸の隅田公園のようである。 写真

墨堤に将軍吉宗が桜を植え付けたのがはじめ



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有名になった団子の名が橋の名前になった

京都山科に遷都した桓武天皇のひ孫、在原業平が隅田川の川面に飛ぶ都鳥を詠んだ「名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと」という歌にちなみ、「言問団子」という団子を売り出した人がいる。幕末のことで、植木師だった外山佐吉という人がつくるこの団子は評判になった。桜の頃は特に売れたろう、この店は有名になる。そして有名になった団子の名がこの地域の別称になり、さらに橋の名前にもなったという。川端康成はその小説「浅草紅団」の中で言問橋の直線のもつ美しさを男らしいと書いた。橋は東京空襲の時の悲惨な歴史を残しつつ、写真黙々と向島と浅草を結んでいる。橋上から姿のいい東京スカイツリーが見物できる
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夕陽を受け黄金色に輝くスカイツリー

(吾妻橋上から)

白髭橋から勝鬨橋までの橋を隅田川十二橋と呼ぶが、吾妻橋はその中の1つに数えられる橋。現在は、鉄道橋が多く架けられ雑然としてきたが、隅田川十二橋をめぐる隅田川ラインと呼ばれる水上バスコースが吾妻橋西詰の橋のたもとに設けられた「浅草」桟橋から出ている。
写真 隅田川を約40分でめぐる水上散歩は東京の売り物の1つになっている。いま、橋はなぜか赤く塗られているが、背が低く堂々として安定感がある。橋上からは、アサヒビールのビルと火の玉(?)に並んで東京スカイツリーの勇姿が眺望できる。夕暮れには西陽を受け黄金色に輝き、新鮮な感動があるからか、多くの人たちがカメラをスカイツリーに向けている。