北条政子
北条政子(ほうじょうまさこ)は源頼朝の正室で、鎌倉幕府は2人でつくったといっても過言ではないが、頼朝が亡くなり、2代目も3代目も亡くなった後、政子をピンチが襲う。皇権の回復を望む後鳥羽上皇が挙兵に踏み切ったのだ。政子は御家人たちを前に、「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。(中略)三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。(後略)」と演説をする。御家人の動揺は収まった(「吾妻鏡」)あと、軍議が開かれ、大江広元の献策通り幕府軍は京へ進軍。19万騎にふくれあがった幕府軍の前に後鳥羽上皇は降伏、隠岐島へ流されたのである。尼将軍と呼ばれた政子の必死の形相が思われるその晩年である。