西郷隆盛(さいごうたかもり:1828-1877年)
明治維新を起したことの発端が「黒船」だったことに異論はないだろう。そして、薩摩の西郷隆盛と大久保利通、長州の桂小五郎、土佐脱藩の坂本龍馬がその中心にいたことも間違いないだろう。西郷の他者を抱き込む力。大久保の目的を達成させようとする時の粘り、龍馬の大きく構想する力と行動力が奔流となり維新は出来上がった。4人の思考のレベルとその熟成スピードがたまたまこの時間帯(1853-1867)で1つになり、日本を根こそぎから動かす巨大なエネルギーになって成し遂げられた。2017年11月にいるヒトから見ると「その4人のエネルギーの合致」は奇跡のように思えるし、まさに小説のように思えるかもしれない。それほど大きな「現象」であった。 西郷隆盛の生涯を追うと3つの時代に分かれる。
(1)西郷が薩摩藩主島津斉彬に可愛がられた時代。
(2)島津斉彬が突然亡くなった(暗殺されたとも言われている)
あと、西郷と大久保が力を蓄え、懐を深くしながら、権謀術数の限りを尽くして維新を達成、明治政府を成立させた時代。
薩摩藩の国父ともいわれ、斉彬亡き後、実権を握っていた島津久光はのち、2人に騙され乗せれらたと激怒したという話がある。
西郷と大久保にとって権謀術数ではなかったろう。目的を達成するために立てたマスタープランにそって、時々で課題を出し解決点を探っていったことが、後世からみると権謀術数と映ったかも知れない。ある時点で会津と結び長州を敵とする。が、後日、長州と結び会津を朝敵とするなど解りづらいことも多い。しかし、課題の数も解決する時に考えないといけない事象の数も少ないが、現代でも同じことは多いのではないか。
(3)明治政府の運営について西郷と大久保が対立。大久保は富国強兵を中心に置き、西郷は維新成立あと、当然のように実施された廃藩により、「武士」でなくなった武士のことを考えていた。
いろいろあって、やがて西郷は鹿児島に帰る。そして、1874年(明治7年)、私学校が設立され、3年後に西南戦争が起き、西郷は生涯を終える。
西郷を語るのは、存在が大きすぎて憚りがあるが、超巨大な岩石が周りを巻き込みながら、ごろごろ転がっていき、遂には、海に落ちる。岩石はいまも海底にある。
西郷の生涯はそういうものだったのではないかと思ったりする。写真協力:鹿児島県観光連盟 |