横浜が始まった日
日本人の誰もが知っている黒船。浦賀沖にその姿を見せ、日本人を驚愕させたのは1853年夏。大きな外輪が水しぶきをあげ、大量の煙を吐きながら江戸湾を行き来した。産業革命の原点である蒸気機関をもち、いとも簡単に地球を一周する黒船。空砲とはいえ江戸市街を砲撃する黒船。組織としていえば「海軍」をもつアメリカ合衆国。さらに、誰でも立候補でき選挙に勝てば誰でも大統領になれるアメリカ合衆国。幕府閣僚、各藩の重役たちは、なだれ込んでくる莫大な知識を整理整頓するだけでも大変だったろう。
艦隊は蒸気船2隻を含む4隻。
東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーが指揮を執っていた。
2度目に来航したのは翌1854年の早春。ほとんど恫喝だったといっていい初回と違い、条約の締結と食料や水の提供など具体的な要求を突きつけてきた。結局、要求された多くの点に「YES」と答えた日本の「近代」はこの時から始まったのだろう。舞台は横浜であった。
話が少しそれる。ペリー艦隊に突きつけられ会談を続けたことで得た真新しい知識に驚きながらも感動した(?)日本人の頭脳とこころはその後も習性として残り、「海の向うの新しいコト・モノ・ヒトに憧れる」日本人の原型となったのではなかろうか。そして、港YOKOHAMAがハイカラなイメージを持つことになったのはその時からではなかろうか
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)
日米会談を終えたペリーとその将官たちは横浜に上陸した。ペリーに随行した画家ハイネは晴れた日の砂浜を続々と上陸してくる軍人たちを描いている。砂浜は当時の横浜村だといい、現在、開港資料館が建つあたりだという。