神奈川 鎌倉・北鎌倉
富士山の雄姿はいい。人を納得させるものがある
鎌倉を首都にする
源頼朝は関東に勃興する若い武士たちを勢力の地盤にしている。そのことは既に何回か触れた。
関東の若い武士たちは数が増えやがてグループがいくつもできた。そしてグループは合わさり軍団になり爆発的な軍事力になる。頼朝とその幕閣たちは実感していた。が、しかし、現在の頼朝は平家を倒し日本全体を武力で圧倒できるまでにはもちろんなっていない。頼朝は1180年10月に鎌倉幕府を作ったが、旗を掲げ存在を示したにすぎない。京にある朝廷つまり後白河法皇は平家に対峙する勢力として認めていない。現状では内戦すら起こせていない。頼朝は次のステップに進まなければならない。
1)軍事力の増強とその統率力、戦闘力を高める
2)頼朝による統治の中心として「鎌倉」を首都として確立する
3)関東武士団の規律を明らかにしやがて日本全体に及ぼす
かなり幸運なことだと言えるが、同じ10月の21日、のちに軍事の天才と言われる源義経が頼朝の手のうちに転がり込んできた。結果論だが、義経が頼朝軍を率いることで、「1)軍事力の統率と戦闘力を高める」部分の大方が片がついた。
内戦(のちに源平の戦いといわれる)を起し源平の旗印を鮮明にして負けた平家の軍事力を事実上ゼロにすることに成功した。義経の飛び抜けた能力に頼朝が恐怖(?)し嫉妬したことでその能力を彼は捨てた。平家が滅び日本全体の軍事バランスにケリがついたことを頼朝はもちろん解っていたろう。
「統治の中心として鎌倉を首都らしくする」ために頼朝がやったことは以下のようなことと思われる。
①どこをどう行けばどこに行くという歩きやすい動きやすい町にする。そのために南北東西に抜ける大路(若宮大路、横大路、小町大路など)を造る。そして、京の都と関東一帯から鎌倉に通じる道を整備する。さらに交易、商業のための道を造る
②他を圧して大きな建造物であった大倉御所と鶴岡八幡宮を頼朝勢力のシンボルとする。町のシンボルともする
③武家(御家人)の住いと商業ゾーン、町人住居ゾーンを分ける などであっただろうか。
1180年の12月、大倉御所が出来上がったころ、「東国の人々が頼朝を鎌倉の主として推戴するようになった」と吾妻鑑にある。つづけて、巷の道をまっすぐにし村里に名前をつけ、町に家屋が立ち並んだと。
同じ16日、鶴岡若宮に鳥居が立てられ、頼朝が馬に乗り水干装束で参詣したとある。
漁師や農民以外住む人のいない辺鄙な里であった鎌倉が立派になったと喜んでいる風情が漂っている。