神奈川 鎌倉・北鎌倉
第1回 頼朝が命を懸けたこと
「鎌倉幕府」のことを今月から3回に分けて話したいと考えています。お楽しみください。
源頼朝は何かを倒そうとして挙兵した。初めの戦いは99%勝ち目のない戦だった。彼が命を懸けて実行しようとしたものはなにか?
①「平家打倒」と②「朝廷が司る社会の仕組みを打破」することであったろう。三島大社に参拝の折、自らに約束したはずである。
「平家」とは清盛が再興した平家による独裁政治である。清盛は天皇(朝廷)が行ってきた体制を踏襲することしか想像できなかったのか、武士らしいことは何もしなかった。
平家打倒は1185年半ばまでに成し遂げた。
「朝廷が作り行った社会の仕組み」とは天皇とそれに連なる貴族が行政と裁判そして富を独占する社会システムのことである。明日香に政権が作られたころからの仕組みで、京に都が定められてからも400年の間、続いていた。
頼朝は軍事と富の独占を崩すことから始めた。「守護地頭の設置とその任免権を獲得する」ことであった。
設置とその任免権は1185年11月、朝廷から頼朝に与えられた(文治の勅許)。吾妻鏡は文治元年十一月十二日条に大江広元の献策によると述べながらかなり詳しく書いている。
頼朝を担ぎその兵隊として働いた坂東の武士(自ら開墾して地主になった階級)たちに報いるとともに頼朝は自分が補任する地頭を動かし全国規模で社会構造の転換を進めていこうとした。このことが頼朝の命を懸けたことであったろう。
源頼朝
第56代清和天皇の皇子が臣籍降下し源氏を名乗り清和源氏と呼ばれる。清和源氏の中で初めに武家集団を作ったという「河内源氏」の流れに頼朝はいた。
河内源氏は頼朝の五代前、八幡太郎義家とその父頼義の陸奥国での武功※を称え「武家の棟梁」の家系とされた。合戦の折、義家は坂東の武者たちを抱え込みついには彼らを自らの戦力にしたという。
※義家と頼義父子は奥州での合戦即ち前九年の役(1051年~1062年)と後三年の役(1083年~1087年)を平定、陸奥国の大豪族安倍氏、清原を倒した。
河内源氏は隆盛を迎えたが、頼朝の父義朝が保元の乱で清盛に敗退し一時期衰退した。
しかし頼朝は「武家の棟梁」手形を最大限に使い坂東武士に食い込んだ。そして短期間のうちに彼らに担がれ関東に武家による政権を樹立した。