神奈川 鎌倉・北鎌倉








大きく弧を描く由比ヶ浜と材木座海岸
材木座海岸
材木座海岸は遠浅である。引き潮に流される浜辺の砂模様が美しい。一年を通じて海で遊ぶ人が多く、西の山の上にのぞく富士山を眺めに来る人もいる。
幕府を樹立した頼朝が海辺の寒村だった鎌倉にどれほどの規模の「鎌倉」を想定していたかわからない。しかし、日本の政治、行政の中心になる鎌倉が相応の規模の「都市」になるのは当り前のことだった。
幕府の庁舎(御所)と鶴岡八幡宮の建立から始めたと吾妻鑑にある。
その建設は急ピッチだったろう。若宮大路、小町大路、大町大路などの道路建設、滑川など大小の河川の治水工事と架橋、主だった御家人の住居、さらにそれが掘立小屋だったとしても多少の造作が要る町民たちの住まい、店舗の建築が同時に始まった。大事件である。
同じ寒村だった「江戸」の都市建設とは比ぶべくもないが人もモノもない鎌倉でのことである。大工、工事人夫とその頭領が集められ、木材、石材などが伊豆国、相模国の各地から集められた。
木材などを大量に運搬するため船が使われはじめ、荷揚げ港として和賀江島も造られた。北条泰時の時代である。
現在の材木座の町あたりは陸揚げされた材木を運ぶ人夫でであふれた。武士や町民の食べる五穀や野菜、魚介を売る商人もいただろう。
やがて一帯は材木座という名で呼ばれる町になり前の浜は材木座海岸と呼ばれた。この頃騒々しい感のある鎌倉の中で比較的静かな町であり海岸であるように思える。
材木座界隈(大町も含めたい)は東京下町に似た匂いがわずかにある。モノとヒトの集散が激しい町の共通した匂いであろうか


由比ヶ浜
鎌倉を出る人入る人の多くが通った由比ヶ浜。
往時は由比ヶ浜から上る極楽寺坂を抜け稲村ケ崎、七里ガ浜に出た。
坂の入口に合戦の場での奮闘ぶりが称えられる権五郎鎌倉景正を祀る御霊神社がある。余談だが、その参道入口角にある餅屋でつくる力餅がうまい。
由比ヶ浜は潮風がいつも吹いているからかウィンドサーフィンをする人が多い。遠浅の浜辺で子どもにサーフィンを教える人もよく見かける。波が大きくならず子どもに丁度いいからだろうか。
由比ヶ浜から伊豆大島が南の方にうすく見える。初めてこの浜を散歩する人だろう、島影を指差したりしている。
このあたりに住みこのあたりを作品の舞台にした小説を書いた作家立原正秋に「海岸道路」がある。無頼に過ごす青年の話である。


