神奈川 鎌倉・北鎌倉








七里ヶ浜から相模湾を望む。水平線上に伊豆大島が写っている。
初の出も期待できるといわれる。
最近このお寺を訪ねてくる人が多くなった気がする。日蓮上人の像が立っているが宗派の匂いがあまりないのがいいのかもしれない。二体の仁王様が迎えてくれてその門をくぐると広い境内。正面に祖師堂があり右手に比企一族のお墓が多数ある。
鎌倉/ 立春をすぎたら梅だ
陽光がふりそそぐ立春が来た。鎌倉駅から5分歩く。
鎌倉は狭い町でそのほとんどが住宅街。同じ住宅街でも東京練馬区とは違う。その昔の野っ原の風情を残している。なんだろう。道端に垣根があったり小さな野花が咲いているからだろうか。70万人余の人が住むものの大根畑が残り公園の広い練馬区でも野花はあまり見かけない。
二階堂、扇ガ谷、佐助。比企谷、松葉ケ谷の入口あたりまで5分だ。北鎌倉は駅を降りるといきなり散歩道だ。
カレンジュラ、たんぽぽ、福寿草など春先は黄色い花が多い。咲き始めた花やまだ花芽のままの草花。宇宙から見た地球の青を感じさせるオオイヌノフグリが待ち遠しい。青い花を道端に咲かせ小宇宙を感じさせる。



名の知れた花の寺。扇ガ谷の坂道の突き当りにあり1年を通じて花が咲いている。ミツマタの花が咲くころの梅の花の色が鮮やかでいい。
瑞泉寺の春/椿・ミツマタ
椿は本堂の前に枝を伸ばしている。枝が整理されていないため藪椿のようでありその風情がいい。
同じ境内のミツマタはジンチョウゲ科で花言葉は壮健。その繊維は和紙になる。
沈丁花のように小さな花粒が一緒になって丸く花の色はベージュ色の中に黄色が混じって可愛い。
瑞泉寺は二階堂川に架かる通玄橋をわたりそれなりの坂道を上ったところにある。途中右手にあじさいが咲く傾斜がある。



覚園寺参道の野花と梅 |
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北条政子と義時(8)

その時政子は考えたろう。頼朝がなにを作り上げたくて鎌倉幕府を創ったか。「関東大地に芽を出そうとしている武士たちがいっぱしにメシが食える。その武士たちが寄って立つその誇りとその一所を懸命に守るためだ」。
その幕府を育てることが自分の役目だ。それを脅かす個人、集団は何人(なんぴと)であろうと攻撃し潰す。「頼朝が始めた考え」とその結果である幕府を積極的に正統し遵守するということだったに違いない。政子は実行した。承久の乱の折に武士たちに対して発した「檄」はその流れを絶やさないよう、なおかつ継続してくれというメッセージである。
この地上から頼朝が突然いなくなった時「それが揺らぐ種はすべて排除、すでに花が咲いてても排除する」ことを政子は決めたに違いない。同時に、幼い子を目の前にして、当然のことながら援軍は誰かと考えたろう。血のつながった弟義時(36歳)、その子泰時(16歳)は味方。愛妾牧の方にうつつを抜かしている時政は父親であろうとも時代を撹乱する敵とみた。(1205年に追放)
長男で二代将軍頼家の有頂天な行動を見せつけられた時も「頼朝の考えた幕府ではない」として排除、1203年9月7日に自らの判断で修善寺に追放している。当然のことであった。母親としての情は別にあった。頼家の菩提を手厚く労っているのを見ればわかる。
頼家追放の5日前、9月2日、比企氏一族を抹殺している。幕府の屋台骨を揺るがす軍事集団だと判断したのだろう。比企尼は頼朝の乳母であり、流人頼朝を20年、サポートし続けた一族であった。いま妙本寺のある比企谷に一族の屋敷があった。1日で方が付いている。
時間がさかのぼるが、1199年4月に定められた「13人の合議制」についてはコラム①で触れる。(参照されたい)
そしてこの頃、時政は執権に就任している。北条氏による専制政治が姿を表し始めた。政子が掲げた方針に照らしてベストだったか。
比企能員の変のあと 頼家を追放。実朝が三代将軍に就任(12歳)。1204年頼家を修善寺で暗殺。
そしてさらに時代を動かすような混乱が1205年6月22日に起きる。畠山重忠を誅殺した事件である。実行した軍事組織の指揮者は義時である。
1199年以来、時代の針が指している中心点は政子だった。が、政子が笑ったり怒ったり悲しんだりする時間帯が過ぎようとしていた。
コラム①「13人の合議制」![]() ただ13人全員が集合して談合したことはなかったらしい。頼家と大江広元、藤原親能、梶原景時ら頼家派の巨大なエネルギーに対抗する一時的な組合のような政治的な意味合いのものだったのではないか。 合議制という受けのいい呼び方を誰がしたのか不明だが、その風聞の拡がりは頼家およびその派閥に大きくのしかかり追い詰めていったことは確かであり、その時点で13人の合議制はその役割を終えたようである。 |
![]() 頼朝が義時を褒めている。 政子が頼朝の寵姫亀の前の棲家を打ち壊した事件。 北条時政の若い妻牧の方が頼朝の寵姫亀の前の棲む家の所在を政子に密告したことで、政子は怒り狂い、牧の方の父牧宗親に命じその家を打ち壊させる。 このことを知り頼朝は激怒。宗親の髻(もとどり)を切り辱める。宗親は泣く泣く逃亡、さらに、若妻の悲しみを知った時政は郎党を連れ、頼朝に暇乞いもせず伊豆に帰る。 頼朝は時政に対し「我が意に叶わない」と怒りながらも時政に同行しなかった義時を召し「汝は子孫の護りになるであろう」と褒めたいう。鎌倉武士の誇り高さを絵に描いたような話だが、いずれにしても19歳の義時が頼朝に認められた最初ではなかろうか。 |