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京都 清水寺・祇園

 
 
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秀吉とねね



図取りをして切り出したMAPの中には 面白くて哀しい物語がたくさんある。
すこしづつそれを話していきたい。
始めは信長という辛みを効かせた「秀吉とねね」の話。


秀吉秀吉(1537-1598)とねね
ねね北政所が秀吉を弔うために建立した高台寺は京都東山山麓にあり二人を祀っている。
①秀吉は1537年生まれでねねは12歳下。二人は1561年ころ一緒になった。藤吉郎は足軽組頭になっていた。
②1554年ころ信長と運命的に出会う。信長20歳、秀吉17歳。
③1560年5月桶狭間、義元の首を挙げる。信長26歳秀吉23歳。
⑤1566年美濃攻めの折、墨俣城を一夜で造ったという伝説。才能をなによりも大切にし才能をもつ人を集め人を動かしていく秀吉の才能をよく表している伝説である。
⑥1568年信長の上洛。明智光秀らとともに秀吉は京都の政務官を任された。信長34歳秀吉31歳。
⑦1570年朝倉攻め、姉川の戦い、朝倉浅井の殲滅。信長36歳秀吉33歳。
⑧1577年中国攻め、そのトップになる。5人の軍団長の1人秀吉40歳。
⑨1582年本能寺で信長は光秀に殺され48年の生涯を終えた。独善的で説明をしない信長は部下を不安にする。その結果妄想者光秀に殺された。秀吉45歳。
⑩秀吉にとって3つ目の運命的出来事だったがこれ以降は運命的な出来事はなくなる。信長が決める運命はもうやって来ない。秀吉自身がプランし自分で運命を作り運命の上を歩いていくのだ。
半兵衛も官兵衛も去り作戦参謀もいなくなった。


信長 信長(1534-1582)と藤吉郎
藤吉郎との初見は1554年頃で信長20歳、秀吉17歳である。この頃の信長は戦い続きで忙しくまた一兵卒でも欲しい時間帯であったろう。元気のいい藤吉郎が信長の目にどう映ったのか。
信長48歳の悲運までそれぞれがそれぞれを100%信頼し合う仲であったように思える。秀吉にとって信長は「神」であったかもしれない。
1560年桶狭間での乱戦で信長は駿遠三の国主今川義元を討ち獲る。以降の彼の運は大きく弾けるばかりであった。

戦場になった六波羅、八坂界隈

坂上田村麻呂(758-811)と清水寺
坂上田村麻呂
かん
坂上田村麻呂は奥州いまの東北地方で、大和朝廷の施政方針に服(まつろ)わぬ民を諭しある時は武力で統治した征夷大将軍である。
青森市や弘前市の夏祭りには必ず人型(扇形)灯籠が登場するが、そのキャラクターとして坂上田村麻呂は人気がある。市民は今でも彼が好きなのだという。
坂上田村麻呂が清水寺の創建に力を尽くしているが、その言い伝えは以下。
妻の病の治癒を願い八坂郷の東、音羽山こ鹿を狩りに行った折、田村麻呂は僧賢心から無益な殺生はするなと教えられる。
その教えに深く感じ入った彼は観音様に帰依、その後、清水寺を建立したのだという。
枕草子や紫式部の書物に観音霊場として五月蠅いくらいに清水寺が賑わっているとあるそうだが平安の昔から著名なお寺だったらしい。
平清盛(1118-1181)と六波羅界隈
平清盛
大和朝廷が成立して以来、天皇家を中心にして血統の近い人たちで統治体制を組んできた日本。その支配構造の上部に風穴をあけ武家による統治をした初めての人、それが平清盛であろう。
宋との交易に目を向けた人でもある。
長く続いた朝廷による支配構造を打破し武家なりの簡素で直截な機構を造るにいたらず、後白河法皇に取り込まれてしまったのは残念であった。が、清盛はもっと評価されていいのではないかと考えている。
六波羅界隈の代表として六波羅蜜寺をあげた。
木曾義仲(1154-1189)と八坂法観寺
木曾義仲
義仲は源頼義・義家直系の血をひき源頼朝とは従弟にあたる武家。幼い頃木曾で育てられたことから木曾義仲と呼ばれた。
都から平家を追い払い一時は朝日将軍と呼ばれるほどの羽振りだった。が、それは長く続かず、頼朝の軍に追い詰められ琵琶湖畔で最後を迎えている。
芭蕉は義仲の一生が好きで、義仲が葬られている義仲寺(大津市)でともに眠っている。芭蕉の門人の句に「木曽殿と背中合わせの寒さかな」がある。
八坂法観寺には義仲の首塚がある。琵琶湖畔から持ち帰った「首」は義経が首実検をしこの場所に葬ったのだろう。