伝西郷隆盛(2-1) 禁門の変と薩長同盟
1853年! 遮蔽された天地の中で独りよがりの論理と平和をむさぼっていた「徳川幕府・日本」に文明のレベルの違う世界を見せつけ風穴を開けたのは浦賀に来た黒船四隻である。 1853年だった。ここから幕末が始まった。 このままじゃあいかん、なんとかせんと日本が沈むと考えた人たちがはじめ寺子屋風に動き出した。吉田松陰らの動きだ。 1858年、そんな動きをかなりの割合で潰した大老井伊直弼による安政の大獄(松陰が刑死)。 そして1860年反動勢力による井伊直弼暗殺(桜田門外の変)。大まかにいうとこのあたりから将軍家廃止派が存続派を上回りはじめる。公武合体というその場しのぎのような案も出てきて薩摩藩島津久光と会津藩松平容保が手を結ぶ。天皇家を守ろうとする久光と徳川家を守ろうとする容保が交した薩会同盟だ。1863年9月。 1864年4月、西郷は流刑地沖永良部島から返され中央の政治に首を突っ込んだあたりにいる。浦島太郎状態だったかもしれない。 ちなみにアメリカでは南北戦争が勃発していた。1861-1865年。
伝西郷隆盛(2-2) 禁門の変と薩長同盟
禁門の変は1864年8月20日に京都御所・蛤御門あたりで起きた。長州藩が攻める、薩会二藩が押し返すという戦い。長州は倒幕、薩会は公武合体を旗印にして長州藩を京(中央政界)から追い払う戦いである。こののち討幕に傾いていく薩摩藩と西郷がなぜ長州と戦う?という疑問が起こる。 以下推測! 西郷はこの時点では徳川家を存続させた上で天皇中心の政権を作ると考えていた主君島津久光の意向を汲んでいたかも、あるいは武闘派穏健派とも人材が揃いエネギッシュに動く長州藩に勢いがつき過ぎる、このままでは長州藩に権力がいくと考え、ここで一叩きしておきたいと考えていたのかもしれない。(閑話終り) 長州藩は戦いに負けて国に引き上げた。龍馬が西郷を説き伏せ薩長による同盟が結ばれるのはその1年半後、1866年3月である。
|