東京 上野
順番をまつスズメ
伝西郷隆盛(7)
1869年6月、戊辰戦争は終った。そして1873年、いわゆる征韓論に破れた西郷は薩摩に帰る。
その4年の間、廃藩置県が実行され軍制改革が行われた。およそ270の藩がなくなり藩から食い扶持を得ていた藩士は無職になった。全国に飯の食えない浪人が溢れた。米を作る百姓は食いっぱぐれることはない。戊辰戦争で血を流し汗を流した中・下級の武士たちがこちらを見ていると大久保と西郷は感じていただろう。
坂本龍馬は「貿易」で飯を食わすことができると考えていた節があるが今政府に集っている人たちにそういう知恵はない。
ではこの局面で西郷さんはなにを考えていたか。大久保はなにを考えていたか。
二人の考え方は違う。
西郷は多くの中・下級の武士たちに米、銭を対価として払える「労働=荷役」を大量に作り出すことだっただろう。直接的で素朴に考えただろう。
大久保は違う。性急に食えるようにしなくとも人はたやすくは死ぬことはないと考える。5年くらいの時間をかけて多くの人物、事業に接し見聞きする、その中に新しい飯の種が必ずあるはずだ、その種を育てればいいと考えたはずだ。彼らのエネルギーをうまく使い国がつくる流れの中に組み込み参加させるのだ!と考え始めていたに違いない。
西郷さんは自らの体調がすぐれないこともありすこし急ぎ過ぎていたかもしれない。
大久保は国民に飯を食わせる術を知っているらしい西洋の先進国を自分の目で見るべきだと考えた。
岩倉使節団として1871年12月から1873年9月まで西洋12か国を巡察している。当時の日本の先進的で柔らかい頭脳をもつ青年たちの多くを連れていった。
ウィークデイの午後だったが名残りのパンダを見にきた人が多かった上野動物園。
上野の森 博・美ニュース













